長屋和哉『イリュミナシオン/冥王星』
- 湯本裕二 
- 7月19日
- 読了時間: 2分
長屋和哉はいわゆるニューエイジっぽい音楽を作られているんですけど、スピリチュアリティを中核にしながらもクラブミュージック以降の音響とテクスチャーを通過しているので、鋭いです。
単刀直入で率直なサウンド。
無駄と迷いがない。
ニューエイジリバイバルというサウンドが10年前位に国内外で多く紹介されまして、その流れで聴いていたんですけど。
スピリチュアルとかそういうの、嫌ってましたが、しっくりくるんです。ポップミュージックはほぼ無視してます。
やっぱりおかしいですよスピリチュアリティを無視するのは、とか今は思います。
ジャンルとかではなく、ドビュッシーとかしっくりくるわけです。
クラシックは基本的にホールの響ありきなんです。元々が教会の音響の延長ですから、キリスト教の響なんですね。
私には縁が遠いんです。
日本人だと、鐘の音が町に響いて消えていく音響観なんです、そこに山と川と海の広がりが基調になっています。
虫や鳥や獣の声。湿気。
ホールはそれらの畜生の響と霊性の響を切り離す為にあるんです。
すくなくとも私はホールの響には縁がない人生を送ってきました。
武満徹のピアノ曲好きなんですが、楽器は西洋のものですが、響き方が日本の響で、ぽつっぽつっという感じで、これだよね~、と思うんです。
日本人は根本的にはノイズの海の中で生きています。
仏教も神道もごちゃ混ぜです。
ジャパノイズといって、日本のノイジシャンは世界的に特殊なジャンル分けをされていますが、ノイズであっても他国のノイジシャンとは微妙に響方が違うんですね。
キリスト教国のノイジシャンはどうしても悪魔のシンボリズムと交わってしまいます。
特殊地域的な事情があるんですね。
まあ色々書きましたが、長屋和哉『イリュミナシオン/冥王星』は良いものです。ランボーからの霊感でしょうか。
自我の解体志向と、社会の調整維持の為の音楽、というところか。
最近は操法中によくかけています。寝る人が多いです。




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