言葉と氣、一側の硬結
- 湯本裕二

- 7月28日
- 読了時間: 2分
氣のある言葉とか、氣のない言葉とかあります。
氣を感じます。
氣のない返事とか。
こういうの外国語でどう表現するかわかりませんが。
操法中に喋ることも、黙って施術する時もあるんですが、喋る時は、意味内容とは関係なく特定の場所に氣を向けたりします。
脊椎の外側の指一本分ところを一側というのですが、ここの上からの硬結は的確な愉氣か言葉かけでないと変わらないと言われています。
言葉でも氣でもどっちでもいいんですけど。
言語野と身体が接合している部分(ここは抽象的空間で、こういった機能を持つ特定の領野は脳内に存在しないと思います)に方向付けられた氣ないしはその氣が乗りうる言葉によってしか変わらない身体の領分があるのです。
一側の硬結は、不思議です。
触れるときはかんたんに触れますが、触れない時は探しても触れない。
特に上からの一側の硬結は、被施術者の思考に感応しない限りは触れられないと思います。
よく、野口整体の指導者は古武術とか稽古しますけども、日本の古人の身体捌きを体得するために。
上からの一側に関しては身体捌きはまったく関係ないと思います。
昔の侍の様な動きが出来て和装の生活をしていても、ここに関しては無意味。
毎日ハンバーガー食べてゴロゴロしていても、触れるものは触れる(そんな生活勧めませんけども)。
この硬結に触れる条件は、施術者が被施術者よりも抽象度が高い思考が出来ること。
この一点だと思います。
感情的共感や、無駄のない身体捌きとかでは処理できない、人間の裡なる領域があるんですね。
抽象度の高い思考力だけが持つ、練られた氣の鋭さがあるんです。
上下型以外に分からないかもしれませんが、本を読む以外に練ることのできない氣というものがあるんです。



コメント