走りたいから
- 湯本裕二

- 7月24日
- 読了時間: 2分
息子の友だち。
あるシュチエーションで車に乗ることを拒否して、「走りたいから」とのことで雨の中走って家に帰った。
動きを観ていて体勢(体癖とは違う、その瞬間の身体の勢い、ダン先生が昔に提唱されたと聞いている)が5種なのか、と思ったが。
どうしても、そんなことどうでもいい、という感触を得た。
その人物、とくに子供の勢いを類型で図るのは恥ずべきことのような感じがしてきた。
類型から勢いを観るのと、勢いから類型を観るのは、本質的に全く違うことだ。
稚拙でも、勢いに同調したところから類型に至るべき。
自分自身で感じとれる類型が例えば2つしかなかったとしても、まあそれでよいような氣がする。
12とかわからなくてもいいじゃないか。
勢いの有る無しの2つを感じとることがまず重要。
ここからすべての種別や類型が派生して行く。
人間が勢いで生まれてくるというのは、ほんとうに経験的な事実であり真実。
私はその少年のその時に完全なる勢いを感じた。
最近の芸術にこのような勢いを感じることはない。
自分の感性の摩耗だけの問題ではないと思う。
自分も含め多くの大人が、勢いとは別の処に焦点をあてているから。
おためごかしではなく、子供から多く学ぶことがあるのです。
ある部分に関しては大人が子供から教育を受けるべきです。
でないと文化が死滅すると思います。
最低でも双方向であるべきです。
そういった教育は学校ではなくて、実は公園や路上で行われています。
子供と普通のおじさんやおばさんの間で行われています。
そこにいわゆる若者はいなかったりします。
資本に収奪された「ストリート」なるものではなくて、誰も注目していない、ふつうの路上です。
一応私は音楽家でもあるのですが、この家の前の路上の動向からは暫く目が離せそうにない。
明らかに何かが始まりそうな予感があります。
動きの予感に共鳴すると、実際に空氣が振動し始めるんです。



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