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『感覚の論理的な実現ーー「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」』

 ずいぶん昔に書いた文芸批評を再公開しました。


 以下、経緯と再公開した理由。


 この文章は本当に極端に個人的なものですので、読まなくても問題ありません。


 ただ野口整体を志すきっかけとなったのは小説と文芸批評なんです。


 端緒は言語的体験だったんです。

 

 

 

 この批評が執筆されたのは2004年の暮れから2005年の初頭の間。


 私が29才の時。


 もはや20年前だ。


 脱稿後は周囲の友人が数名読んだが、ほぼ理解されず、そのまま死蔵。


 その5、6年後に氣が向いて当時運営していたblogで詳細に解説を書き足し公開。


 その時に多くの方々が読む。


 小説の、批評の、その批評をさらに自分で解説して、ようやく元の小説が理解されるという実に興味深い言語体験をする。


 また本批評は、ドゥルーズの理論の正当性を論証しながら、同時に、樫村晴香のドゥルーズの理論への批判、への批判としても、テキストが組織されている(最近の彼の論考を幾つかざっと読んだが、やはり何ヵ所も反論可能)。


 とはいえ、執筆時はあらゆる意図や運動が自動化されていた。


 中心にあったのは中原昌也の驚異的な無意識。


 私はその無意識の周囲の領域をただひたすらに半ば意識を失いながら言語で追跡しただけだ。


 テキストの意味に氣付いたのは執筆後。


 この作品論の社会的意味と、ほぼ誰にも理解されなかった社会的経験が、身体と言語の離接に対し、私をさらに直接的に接近させることになる。 


 不思議なことに、本稿を脱稿した直後に野口晴哉の本を偶然手にする。


 そして、文学と音楽の道を徐々にはずれ、整体の道に足を踏み入れるわけだが、まさにそこからが本番で実に奇妙な奇妙な奇妙なことが次々に連続して起きるわけだ。


 すべてはここから始まったのです。


 本稿を再度公開するに至った最大の理由は、日本人の80%がmRNAワクチンを接種し、また未だに接種し続けているからであることを最後に明記する。

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