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手が

よく操法をした後に、手が柔らかいとか、手が熱いとか、言われます。

 

ここは自分では意識できない処なんです。

 

当然なんですが、接触する面には意識が二つあるんですね。

触れる人と触れられる人の二つの意識です。

 

この二つの意識に落差があればあるほど、お互いに別のことを感覚しています。

 

実際に整体指導というものには、この落差が必要であるし、またなければ成立しませんし、指導自体が無用のものになります。

 

面、というものには差異と断絶が内包されているんです。

 

面とはこの場合皮膚(眼球も鼓膜も含みます)ですが、その皮膚に対して、操法時には外からと裡からと二つの方向から力が掛かっているんです。

 

この二つの力の方向が拮抗する処と時間を、集注と言います。

 

愉氣とはそこで生じる現象です。

 

昔は輸氣と表記しましたが、野口晴哉先生がある時期に愉氣と改めました。

 

輸氣ですと、一方通行に治癒の為の何らかのエネルギーを送る、というイメージですが、これは実感としても違うのです。

それではむしろ治らないんです。

 

二つの意識が身体の上にある種の集注状態を成した時に愉氣となるのです。

 

野口先生は「障子越しの陽」のようなと表現されていました。

 

皮膚である障子という面を境にして、感じるのは陽であり熱であり、さえぎられるのは視線なのです。

 

瞑目して、身体の裡に集注して愉氣を感じると、はじめて自分から自分の力で身体が変化していきます。

 

変化する時の身体は、大抵熱に浮かされています。

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