top of page
  • IMG_0125
  • X
  • Instagram
  • Line

手が

よく操法をした後に、手が柔らかいとか、手が熱いとか、言われます。

 

ここは自分では意識できない処なんです。

 

当然なんですが、接触する面には意識が二つあるんですね。

触れる人と触れられる人の二つの意識です。

 

この二つの意識に落差があればあるほど、お互いに別のことを感覚しています。

 

実際に整体指導というものには、この落差が必要であるし、またなければ成立しませんし、指導自体が無用のものになります。

 

面、というものには差異と断絶が内包されているんです。

 

面とはこの場合皮膚(眼球も鼓膜も含みます)ですが、その皮膚に対して、操法時には外からと裡からと二つの方向から力が掛かっているんです。

 

この二つの力の方向が拮抗する処と時間を、集注と言います。

 

愉氣とはそこで生じる現象です。

 

昔は輸氣と表記しましたが、野口晴哉先生がある時期に愉氣と改めました。

 

輸氣ですと、一方通行に治癒の為の何らかのエネルギーを送る、というイメージですが、これは実感としても違うのです。

それではむしろ治らないんです。

 

二つの意識が身体の上にある種の集注状態を成した時に愉氣となるのです。

 

野口先生は「障子越しの陽」のようなと表現されていました。

 

皮膚である障子という面を境にして、感じるのは陽であり熱であり、さえぎられるのは視線なのです。

 

瞑目して、身体の裡に集注して愉氣を感じると、はじめて自分から自分の力で身体が変化していきます。

 

変化する時の身体は、大抵熱に浮かされています。

最新記事

すべて表示
ロングウォーク

先日小2の息子に「隣町までどのくらい?」と夜の散歩中に聞かれ、「100メートル」とか答えたんです。 そしたら違うとのことで、よくよく聞くと、隣の県までの距離。 「行きたい」と。 「往復4、5時間かかるよ」と言うと、それでも行くとのこと。 その夜は遅かったので、それで帰ったんです。 次の日、諦めたかと思っていたら、午後9時ごろに「行く」と。 約束したから、と。 しょうがな

 
 
 
数息観

先日の活元会で活元運動の後に、数息観の稽古をしました。 数息観というのは、元々は禅の観法なんですけど、野口整体でも基本的な修行法として取り入れられていて、集注力を鍛える観法とされています。 やること自体は簡単で、座って、呼吸を数えるだけです。 100から120数えることができると集注力があるとされていて、200数えられると逆に集注していないとされています。 最初に腰を動かしやすいよ

 
 
 
身体と心

操法中、人の足に触れていたんです。 あれこれ操作していた時に、ほんとうにその人の心に触れている感じがしたんです。 仏教で心身不二とか心身一如とかいいますが、始めて感じました。 勿論、知識としては知っていた訳ですが、ほんとうに感じたんです。 開業して7年位ですけど、今までのお客さんに申し訳ないなと。 今まで何も分かってなかった、と思いましたね。 でも、今まで来て下さった方々の

 
 
 

コメント


bottom of page